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PCと表記すれば、パーソナルコンピュータの事です。1960年代、コンピュータは企業や国、研究機関等が共有する大型の計算機でした。

 

1972年、パソコンの父と呼ばれたアラン・ケイが、「個人のための理想のコンピュータ」を意味する「パーソナルコンピュータ」の言葉を使用し始めます。 1970年代、コンピュータはマイコンと呼ばれていました。マイコンの「マイ」は、「私の」ではなく、マイクロプロセッサの事。マイクロプロセッサの登場で、個人でもコンピュータの購入が可能になります。 1979年(昭和54年)5月。日本電気(NEC)から、PC-8001発売。これが、今に脈々と続く、私とコンピュータとの初めての出会いでしたね。このPC-8001から、マイコンは、「パーソナルコンピュータ」と呼ばれるようになります。しかし、出来る事と言えば、計算ぐらいなものです(汗)漫画ばかり描いていた私にとって、簡単そうなBASICプログラムも難儀の一言(笑)マイコン雑誌の巻末に掲載されたプログラムを、一行一行、手打ちするのが精一杯。 当時、FD(フロッピーディスク)は高価な代物です。手打ちしたプログラムを、カセットデコーダーでテープに記録します。ピーヒョロロ~と待つ事数分。正常にプログラムが走り、真っ黒なディスプレーに映し出されたモノとは…漢字は、表示ができません。単なる「■」だの「●」だの、「A」だの「B」だの、アスキー文字を利用したゲームが、映し出されます(汗) しかし、その単なるアスキー文字が、妙に想像力を描き立たせるんです。怪物にも兵器にも見えます。減り続ける赤い数字が、死を目前にした主人公にも思えます。コンピュータの未来を感じつつも、どこかまだ、敷居が高いのも事実です。パーソナルと呼ばれるほどの手軽感や親近感も、低くかったと思いますね(汗)

1981年。PC-8001の上位機種、NEC PC-8801発売。 1983年。NEC PC-8801mkII発売。FDD・第一水準漢字ROM・単音源搭載。遂に日本のパーソナルコンピュータは、漢字を手に入れます。 そして、1985年(昭和60年)1月。ゲーム大国日本の礎となる名機が、産声をあげました。グラフィック機能強化+FM音源搭載。NEC PC-8801mkIISR発売。 PC-8801mkIISRは、CPU・4MHz。512色の内の8色表示。FDDの記憶容量は320KB。たったの0.3MB。音楽表現を豊かにするFM音源を搭載しましたが、あくまで電子音です。歌手のボイスを聞くなんて、またのまた夢…(汗) 今の人たちにすれば、ないないづくしで苦笑されてしまうでしょうが、当時の若者にとって、PC-8801mkIISRは、あるあるづくしなんです。漢字、音源、記録、グラフィック…あって当たり前の機能が、PC-8801mkIISRの登場で、やっと個人の手に全て揃ったんです。 アラン・ケイは言いました。PCは「個人のための理想のコンピュータ」であると。まさにPC-8801mkIISRは、夢と理想を駆り立てるパーソナルコンピュータでしたね。 PC-8801mkIIからFR/MRまでを、武田鉄矢がCMキャラを努め、FH/MHからFE/MA2/VA2/VA3までを、斉藤由貴がCMキャラを努めます。ビジネス指向よりも、ホビー指向の強さを前面に出して、PC-88シリーズは若者に大ヒットです。 あのBGMを聞くと、ワクワク・ドキドキと心が高揚します。あのラストのグラフィックを見ると、映画同様に心は余韻に包まれます。あの台詞を読めば、じ~んと涙も溢れてきます。小説、映画、音楽…が、パーソナルな人生に教訓や感動を与えてきたように小説、映画、音楽をメディアミックスしたゲームもまた、人の人生に大きな影響を与える存在となっていきました。 しかし、当時ファミコンは14,800円。PC-8801mkIISRは、258,000円と高価です。雑然と散らかる「現実」の私の部屋で、「理想」のPCだけが、妙に光り輝いていましたね(汗) 現実と理想の対比もまた、人生って事でしょう。

恥ずかしい話、歳を取ると世界を広げる事が難しくなります。利点であるはずの経験や知識が仇となり、無知という不安が知らない世界へ向かおうとする心の扉を閉ざしてしまいます。ですが、子供の頃はそんな知らない世界が、自分の意志とは関係無く接してきますよね。時にオドオドしたり、ワクワクしたものです。   小学校から中学校に進学すると、世界は変わります。町内から校区へ。親としか行ったことがない見知らぬ隣町から、今まで接した事のない個性や容姿を持った子供が集まってきます。小学校の頃とは勝手が違う中学と言う世界を知って、最初はドキドキしながら楽しい中学生活を送ることになっていきます。 1975年(昭和50年)9月。TBS系列テレビで、朝の情報番組「おはよう720」スタート。翌年「おはよう700」に改題。 番組のコーナーである「キャラバンII」では、リスボンから東京70,000kmと題して、車に乗り、ユーラシア大陸を横断する企画が放送されていました。授業で習う世界史や世界地理に出てくるような風景写真やデータではなく、レポーターと現地の人々が直に触れあう「生の世界」がそこにありました。

インターネットの無い時代です。 自分が生きているこの瞬間に、世界の人々が、同じように生活している事をまざまざと知りました。

 番組「おはよう720」が始まる3年前、1972年に発売され、瞬く間に世界のチャートを駆け巡った曲があります。 イギリス人、ダニエル・ブーンが作詞作曲したこの歌を、当時の日本人は知るよしもありません。世界の果てで生まれた一曲をリアルタイムに知る術は当時にありません。知らぬ世界の事でした(汗)   リスボンから出発したキャラバン隊は、冷戦の象徴と言われた分裂時代の東西ドイツに入ります。この頃から流れ始めたのが、そう…「ビューティフル・サンデー」です。   ハイウェイを快走する時、悪路を走る時…。当時の世界経済情勢からみて、貧しい身なりの子供たちが遊んでいるバックで、「ビューティフル・サンデー」が流れていました。例え貧しそうに見えても、笑う子供たちの笑顔は朝の光のようにキラキラと輝いて、心の裕福さを感じていました。   [b]…さわやかな日曜 降りそそぐ太陽 …ヘイヘイヘイ イツア ビューティフル・デー …出かけよう彼方(かなた)へ 歌おう高らかに …ヘイヘイヘイ イツア ビューティフル・デー[/b]

小学校から中学校へ。知らない世界へ踏み込んだ不安もなんのその。ちょっと脳天気で弾けた感じの曲ですが、世界を知る事は決して恥ずかしい事じゃない。もっと肩の力を抜いて行こうよ!!きっと素晴らしい サンデーが待ってるよ。 と、教えてくれているようです。   更に番組のエンディングで、見城美枝子さんや田中星児さんが満面の笑顔でブラウン管から手を振り、こう背中を押してくれました。

「今日もお元気で、いってらっしゃい!」と。